2012-02-06

学校視察レポート⑬







サンパウロのバスターミナルから奥へ600kmほど。
長距離バスで9時間かけて、
同期ボランティアが配属されているアリアンサにやって来ました。


 ~アリアンサHPからの抜粋~
出稼ぎ移住者たちは移民会社によってドンドン送り込まれたが、現実には日本へ帰ることができず、土地を買って自営農になるか、小作農になるかしかなかった。文化が違うため、日本人は固まって暮らさざるをえず、何百という集団地が生まれている。
集団地名として、10人内外の集団は○○耕地といった具合に「耕地」を使ったようである。数十家族を越えると、「植民地」が使われていた。
「移住地」という呼称は1924年にアリアンサ移住地がはじめて使ったもので、これ以後は国策移住地のバストス、チエテ、トレスバラスも「移住地」を使うようになった。
移住地の人口については、昭和14年の統計によると、アリアンサは3,780人、国策移住地のバストスが12,537人、チエテが6,221人、トレス・バラスで4,028人という記録が残っている。
「移住」が公式の用語として使われるようになったのは戦後の1951年からである。





1924年に始まったこの移住地は、
第一から第三までの、三つの移住地区から成っています。

第二地区は鳥取県から、第三地区は富山県からの移住者が多く、
そのため、鳥取と富山から現職の教員が毎年派遣されているそうです。






今回訪れたのは第一移住地区。

舗装された道路はわずかで、
赤土の道の両脇には
緑が生い茂っていました。







こちらが日本語学校。

この地区には
たくさんの日系人が住んでおり、
その9割以上の子が
日本語学校に通っているそうです。






教室に入ると、
写真の掲示物が
目に飛び込んできました。

日本語学校のきまり。

右は同じことを
ポルトガル語にしたものです。








書いてある内容を見ると、
わたしが自分の授業の中で言っていることと同じようなものがたくさん。

ブラジルと日本の教育の違いを感じながら、
みんなそれぞれに工夫しているんだなと感じました。




子どもたちは、
左の写真のブラジル学校に
午前中は通い、
午後から日本語学校で
勉強するそうです。

午前と午後で、
全くキャラが変わる子もいるみたい。

やっぱり学習環境が
物を言うんだなぁ。





今回は日曜に訪れたので、授業を観ることはできませんでした。

でも、ブラジルの教育事情をまた少し知ることができたと思います。

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